痲睡



 

  それは、コキュートスに吹き荒れる寒風の猛攻が、ほんの少しだけ和らいだある日の午後のこと。魔皇の列席の元、月に一度行われる全体会議の開会を待つ間、一足先に会議室に現れた第七座天使の侯爵は燦々と疑似太陽の光が差し込む窓辺にその身体を横たえていた。
 全体会議とは言うものの、その実態は魔皇と6副官、そして、72柱が集まるお茶会というのが正しいだろう。菓子をつまみ、ティーカップを傾け、笑いさざめき歓談しつつ会議が行われるその様子から、月一の全体会議は【ルシファー様を讃える会】という通称まで戴いている。
 本音を言えば、そんな毒にも薬にもならない全体会議などに出たくはないのだが、コレをサボれば後で待っているのは吟遊公爵からの教育的指導だ。さしものの魔狼も育ての親のお説教には滅法弱いらしく、こうして不本意ながらも毎回会議に出席している、というわけなのである。
 出席人数をはるかに上回る量の菓子や湯茶の用意に嬉々として勤しむ司厨長を横目に見ながら、狼王が背中を暖める光の温もりに血色の瞳を細めたちょうどその時。パタパタと急いたような足音を立てて現れた吟遊公爵の手によって、意匠を施された大会議室の扉が重々しい音を立てて開けられたのであった。


「…あ、あれ…?ま、まだ…マルコシアス、だけ……?」

「…………何やってんだ、馬鹿主?」

「……っ…あ、あのね……かいぎ、が……も、始まって、る……から……急がなきゃって……」

「……お前は実に馬鹿だな。開始時刻にゃまだ間があんだろ……」


 息も絶え絶えに言葉を紡ぐ吟遊公爵が、大会議室の壁に掛けられた時計を認め、安堵するように大きく息を吐いた。恐らく、会議の開始時間を勘違いしていたのだろう。
 肩で息をするグレモリーを宥めるように、司厨長がアイスティーの入ったグラスを彼女に手渡した。理性では司厨長になんの下心もないとわかってはいるものの、どうやら感情がそれを許してはくれないらしい。そして、司厨長の方でも、不機嫌そうに鼻面に皺を刻んで牙を剥きかける狼王の様子に気づいたようだ。「あとはお好きに」という顔で肩をすくめると、足早に会場設置に準備に戻っていった。
 グラスの表面に結露を浮かべはじめたアイスティーを一息に飲み干したグレモリーが、空のグラスを掌中で弄びつつマルコシアスへの方へと足を向ける。足首まで埋もれてしまいそうなほどにぶ厚く毛足の長い絨毯が、軽い彼女の足音など飲み込んでしまうらしい。野生の聴力を持つ狼王の耳でも、聞きとれる者は司厨長達がカラトリーや食器を準備する小さな音と、グレモリーのドレスの衣擦れくらいなものだ。
 深い緋色の上に白いベールの裾を引いた吟遊公爵が、窓辺に寝転ぶ第七座天使の侯爵の隣に腰を下ろした。それを確認した狼王は、至極当然という顔で彼女の膝に顎を載せ、その細い身体を抱え込むかのように身体を丸めこむ。


「今日は、ポカポカして気持ちがいいね、マルコシアス」

「……………ダリぃし眠いし良くねぇよ……」

「春だもんねぇ……暁を覚えず、っていうし、眠いのは仕方ないのかもしれないねぇ…」  


 存外に滑らかな闇色の毛を撫で梳いてやりながら、グレモリーは狼王の耳元を指先でくすぐった。くすぐったそうに頭を振るいながらボヤく狼王も、何だかんだと言いつつも、春の到来を喜んでいるようだ。暇さえあれば眠いとこぼすマルコシアスに笑みを漏らしつつ、グレモリーはぽすんと狼の身体に背中を預けた。
 太陽の光を目いっぱい浴びていた狼の身体に顔を埋めると、日向で良く干された布団のような香りがグレモリーの鼻先をくすぐっていく。しかも、たっぷりとした分厚い冬毛に覆われたマルコシアスの身体は、ひどく滑らかで、ひどく柔らかで……。
 窓から差し込む太陽の光に温められ、呼吸のたびに上下する狼の腹に揺られ……ゆっくりと吟遊公爵の瞳が微睡に蕩けていく。いつもであれば、狼王をあやすことで手いっぱいな吟遊公爵ではあるが、全力疾走による疲労とこの暖かな陽気のおかげで、睡魔の襲撃を受けてしまったようだ。
 呆れたような溜息をついた第七座天使の侯爵が軽く身体を揺すってみても、薄く開いた桜色の唇から洩れるのは、むにゃもにゃという不明瞭な寝言だけで、吟遊公爵が目を覚ます気配はまるでない。どうやら、何とも暢気な公爵様は、完全に夢の世界へと旅立ってしまわれたらしい。
 くーくーと穏やかな寝息を立てる吟遊公爵を一瞥し、呆れたような諦めたような溜息をついた第七座天使の侯爵ではあったが……自身も睡魔に抗えなかったようだ。吟遊公爵の膝に顎を載せ直し、自身もまた、血色の瞳を静かに閉じた。
 会場の用意もできたのだろう。今はもう誰もいなくなった会議室内には、物音らしい物音も聞こえない。せいぜい、勢いを弱めたとはいえ吹き荒れる烈風が窓を揺らす音くらいなものだ。
 どうせ、本日の会議も通例どおりグダグダと進むのだろうなぁ、と……。和気藹々にして喧々囂々と踊る会議を思いつつ、自身に抱かれて眠る吟遊公爵の頬を真っ赤な舌でベロリと舐めあげた第七座天使の侯爵は、ゆっくりとその意識を手放した。









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