転寝




 

 人々が『ゲヘナ』と呼び、魔王・ルシファーが治めていると伝えている世界。その荒涼とした世界の中心に、一つの巨大な建造物があった。
 地獄の黄金と貴金属によって装飾された魔王の城…………万魔殿…………。『悪魔のすべてが住まう場所』の名の通り、遥か昔に神と壮絶な争いを繰り広げ、堕とされた魔界の者どもがひしめく場所である。
 その万魔殿の一角。荒涼としたゲヘナの大地が見渡せる空中庭園の片隅に、地獄最強と名高い魔狼の目の前には何とも世も末な光景が広がっていた。


「………………で、何なんだ、この状況は……涅槃でも気取ってんのか?」


 心底あきれ果てた、という態の第七座天使の侯爵が視線を向ける先には、心地よさそうな日陰を作る古木の根元に出来上がっている動物王国があった。
 いや、もう少し正確に言うならば、『動物王国の中心となっているその人物を見つめていた』というところであろう。
 警戒心というものをどこかに置き忘れたかのように無防備に眠るソレを見据えつつ、魔狼は大きなため息をついた。
 萌え始めた芝草の上で胎児のように身体を丸めるソレの周りには、呆れるほどの数の動物たちが集っていた。
 陽光を受けて淡く透ける小さな頭の上では木鼠や山鼠が丸まっていて、呼吸に合わせて静かに上下する背中の上ではスズメや鶯に交じって若鷹がもふもふと羽毛を毛羽立てて丸まっている。見るからに柔そうな腿に顎を乗せて気持ちよさそうに眠っているのは黒虎毛の犬で、くの字に曲がった腹に背中を預けてグルグルと喉を鳴らすのは三毛の猫だ。
 いずれも、彼の同僚ともいえる72柱の魔神達が、使い魔として使役している動物たちである。
 弱肉強食の掟を忘れ、ひとかたまりになって幸せそうに惰眠を貪る集団の姿を眺めつるマルコシアスが、また一つ大きなため息をつき、不機嫌な様子を隠すこともせずにその集団に向かい一歩足を踏み出した。
 軍用ブーツの底でジャリっと小石を踏む音がしたかと思った瞬間、それまで静かにまどろんでいた動物たちがさっと散っていく。
 逃げていくそれらには目もくれず、マルコシアスは未だ静かに眠る主の元へと足を向けた。しかしながら、当の本人といえば一気に氷点下まで低下したような雰囲気にも気付いていないのか、至極のんきな寝顔を曝して眠り続けている。
 これだけ殺伐とした空気の中、こうも平然と眠っていられるのもある種の才能というべきなのだろうか。


「……まったく……こんな状況でよく寝られるもんだな」


 最後まで居座っていた五芒星内の侯爵の先兵である鳥たちを近くの木の枝へと追い払い、未だ眠りこんだままの少女の寝顔を眺めやれば、幸せそうに緩んだ桃色の唇からは、時折むにゃもにゃと意味不明な寝言が零れ落ちていく。
 鼻をつまもうとも頬をつつこうとも一向に起きる気配を見せない主に、流石の魔狼も匙を投げたようだ。どこか毒気を抜かれたような表情で、マルコシアスは『参った』と言わんばかりに肩をすくめて見せた。
 本日何度目になるのかわからぬため息をつきながら、第七座天使の侯爵は、木漏れ日の下で心地よく惰眠を貪る吟遊公爵の前に片膝をつくようにしゃがみ込んだ。
 傍らで眠る少女の頭を撫でつつ見上げた空は、だいぶ日も落ちた上に雲が出てきたせいか随分と暗くなってきているようにも見受けられる。
 分厚い戦闘服を着こんだマルコシアスにとっては大した温度の変化ではないのだが、肌の露出が多いグレモリーにとっては周囲を取り巻く気温の変化は大きかったようだ。
 まして、先ほどまでもふもふとした動物たちと暖を取っていたのだ。彼らがいなくなった今、体感気温は確実に下がっているのだろう。
 小さな身体がピクンと跳ねたと思った次の瞬間、幽かに瞼を震わせつつ、何とものんきな公爵様がゆっくりと瞳を開いた。


「…………あ……まるこしあす……?」

「……俺以外の誰に見えるってんだ、この馬鹿主……」


 潤んだ瞳を幾度か瞬かせる少女に言葉をかけると、少し掠れた声が魔狼の名を呼んだ。
 丸めていた身体を伸ばしつつ眠たげに瞳を擦るグレモリーの言葉に、呆れたような表情を浮かべるマルコシアスが眉間にしわを寄せる。
 だが、それに気にするでもなくようやく身体を起こした公爵様は「寒い」とぽそりと呟いて、そのまま目の前にあるカーキ色の塊にもふりと顔を埋めた。
 予想外にも程があるその行動に、流石の魔狼も咄嗟に身体が動かなかったようだ。
 目も口も見開いたまま硬直してしまったマルコシアスを横目に、この状況の原因である張本人は心地よさそうに瞳を細めている。


「おい、何寝ようとしてんだ、コラ!起きろ、この馬鹿主!!」

「…………えー…いやぁ…いっしょにねよ……?」

「あ゛ぁ!?下らねぇこと言ってんじゃねぇ!!いいから離せ!!一人で寝ろ!!犯すぞ!!!!」


 マルコシアスの肩に顎を載せ、存外に暖かかった身体に抱きつくように寄りかかりながら、グレモリーがふぁっと欠伸を洩らす。そんな暢気な吟遊公爵様の様子に、ようやく我に返った第七座天使の侯爵が状況を把握したようだ。
 慌てたような声を上げる狼は、腕の中にある小さな身体を揺さぶるが、寝起きのせいか幾分下がった身体には、人肌のぬくもりが心地いいのだろう。一度は開けられたはずのグレモリーの瞳が、再びとろとろと蕩けていく。
 どんなに揺すっても脅しても、あっという間に二度寝の体勢を整えた主の顔に笑みが浮かぶのは、彼女がマルコシアスを愛しているからであるのか、信頼しているからであるのか、はたまたその両方か……。
 もはや舌すら碌に動かせぬのだろう。呂律の回らぬ様子で呟くグレモリーが、マルコシアスの身体にしがみつく腕に力を込める。どうやら睡魔に犯されきった公爵様の脳髄は、冷たい褥に戻るよりも、暖かい弟分の方を選んだようだ。
 何処か慌てたように身体を硬直させる狼を余所に、くすくすと楽しげに笑う少女の腕に、ほんのりと力が加わえられる。
 何だかんだといいながらも、狼の傍らは公爵様にとって安心できる場所なのだろう。
 甘えるように頬を寄せてくる主の身体を抱いたまま、第七座天使の侯爵は諦めたように息を吐いた。


「………………………………ぬくーい……」

「ったく……俺をアンカ代わりにしてんじゃねぇよ、お前は……」

「……………………………………うー………マルコシアス………」

「……何だよ、馬鹿主?」

「……………………………………だいすき……」


 それはもう眠そうに自身を呼ぶグレモリーの声に、マルコシアスはふと視線を下げた。焦点すら定まっていないような蕩けきった翡翠色の瞳が、魔狼の赤い瞳と交差する。
 分厚い手袋に覆われた手で髪をすき撫でられながら、ヒュプノスの枝に絡め取られた少女が紡いだのは、狼の思惑をはるかに超える言葉であった。
 それが家族に対する親愛であるのか、意中の相手に向けられるべき恋慕の情なのか、へにゃりと気の抜けたような笑みを浮かべるグレモリーの表情から判断することはできない。
 そして、その言葉を告げた本人は、言うだけ言って満足してしまったのだろう。何ともいえぬ表情のまま固まってしまったマルコシアスを余所に、グレモリーはその蕩けきった瞳を閉じると、静かに寝息を立て始めてしまった。
 後に残されたものは、眉間にしわを寄せたまま、何と返答していいのかわからずに硬直してしまった第七座天使の侯爵だけである。
 

「…………本当に……どうしようもねぇな、テメェは……」


 どうやら、本日の勝負は、珍しく素直になった吟遊公爵の優勢勝ちで終わったようだ。
 何の不安も心配もなさそうな顔で眠る少女を眺めながら……。『お手上げ』という表情を浮かべた城主様が深く長く息を吐き、ぬくく柔い身体を抱いたまま、ぶるりと身体を震わせた。
 その途端、今まで人型を保っていた第七座天使の侯爵の身体が変わり始める。
 爪も牙も長さと鋭さを増し、骨格が悲鳴を上げ始めると同時に、滑らかな肌が長い毛に覆われて……ほんの数旬の間に、彼の身体は巨大な狼へと姿を変えていた。 
 傍らに寝転がっても起きる事なく眠り続けるグレモリーを抱え込むように抱きしめて、マルコシアスもまた、血色の瞳をそっと閉じた。
 陰り始めた疑似太陽が再び顔を出した頃、空中庭園の片隅には、寝息が二つに二つに増えていた。





 








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